はるみちゃんに捧ぐ

永遠なる歌姫:都はるみ

村井 直人 訳

目次

T  都はるみを知らない人たちへ
U  都はるみの生い立ち
  a 生まれ故郷:京都
    b 父のこと
    c 母のこと
V  都はるみの音楽生活
  a 引退以前
    b 引退
    c 復帰後
W  都はるみの音楽哲学
    a 仏教
    b 歴史哲学
    c 研ぎ澄まされた官能的表現
X  都はるみの未来:世界的歌手を目指して

T 都はるみを知らない人たちへ

 53歳の都はるみは、日本で最も有名な女性歌手の一人である。彼女は、NHKの紅白歌合戦(NHKが主催し、毎年大晦日に行なわれる、男性歌手と女性歌手の対抗コンサート)に1965年から84年にかけて出演した。彼女は日本では一般的に“演歌”歌手として知られている。“演歌”は、ユニークなメロディーと歌詞を持つ日本独特の歌と言われている。彼女は外国人には余り知られていないが、歌唱力に富んだ優秀な歌手である。
 先日私は、外国人が日本の歌を歌うテレビ番組を見ていて(勿論彼らは日本語で歌っていたのだが)、ある外国人女性の出場者の言葉を聞いて感動したことがある。彼女は、「世界の誰もが、“演歌”のメインテーマである、愛や別れや苦しみの話には感動するものです。演歌は人間の共通な情愛や悲しみを歌っているので、“演歌”が大好きです」と言っていた。私はこの言葉を聞いた時、“演歌”は世界に通用する潜在能力を持っている、と思った。
 2年前の12月19日に、「99都はるみコンサート」が日本武道館で行なわれた。私は、他の人たちが帰宅途中で、コンサートについて思い思いに話すのを聞いて楽しんでいた。「楽しかった」と言う人もいれば、「元気が出た」と言う人もいた。そんな観客の中に日本人と一緒に来ていた一人の若いドイツ人(後で分かったのだが)を見かけた時、私は彼に近寄りコンサートの印象を尋ねた。「彼女のコンサートはとても素敵でした。歌もパフォーマンスも素晴らしかった」と彼は言った。そこで私は「彼女の歌の詩はわかりますか」と尋ねた。彼の答えは、「いいえ、わかりませんが楽しむことができますよ」というものであった。都はるみのコンサートで、はっきりと日本人ではないと分かる人と出会ったのは、これが初めてであった。たとえ一人の外国人であっても都はるみのコンサートに興味を持ち、彼女を理解する外国人がいることが分かったので、他の外国人も日本人と同じようにはるみの音楽を理解してくれるかも知れない、と思った。このような想いに励まされて、当論文を執筆することとなった。従って、この論文は、都はるみがグローバルな歌手として成功することを目差しているのである。
 1999年9月17日、埼玉県越谷市で行なわれた都はるみのコンサートに行った時、はるみさんと握手をさせて頂く機会があった。私は簡単な自己紹介をした後、大胆にも彼女に言った。「はるみさんの伝記か論文を、英語で書こうと思っています」はるみさんは微笑んで「よろしく」と答えて下った。厳密に言うと、この論文は彼女と交わした私自身の約束を実現したものである。都はるみに関するこの英語論文は、インターネットを使って彼女の情報を世界に発信することであり、彼女がワールドワイドな歌手になるチャンスを実現することを目的としている。
 
U  都はるみの生い立ち

 若干15歳の都はるみは、1963年に「第14回コロンビア全国歌謡コンクール」で優勝した。彼女は翌年、日本レコード大賞新人賞も受賞した。先にも述べたように、NHK紅白歌合戦に連続して20回出場した。さらに1984年に引退して(このことは後に述べることにするが)、89年に復帰した後も、9年間連続して紅白歌合戦に出場した。98年には「紅白は卒業した」と言って、紅白歌合戦出場を突然断ったので、フアンはがっかりした。しかしながら、29年間出場し続けた紅白歌合戦での活躍は、彼女が日本で最も優秀な歌手の一人であることをいまだに証明している。想うに、彼女の素晴らしい歌の基本は、三つの主な要素、つまり京都という風土と彼女の父と母によって培われて来たと考えられる。

  a 生まれ故郷:京都
     
 都はるみは、本名を北村春美と言ったが、1948年2月22日に京都市で生まれた。京都は外国から来た観光客の中で最も人気のある観光地の一つである。京都は東京のような近代的な都市とは違った雰囲気を持っている。京都には1200年に及ぶ長い歴史があり、日本で2番目古い都でもある。その独特な文化的背景には三つの重要な特徴がある。卑近な例を挙げてみると、食べ物であろう。「京野菜」と呼ばれる、京都独特の野菜がある。野菜のみを素材とする「精進料理」は、京都の寺院で高度な発達を遂げた。さらに、お茶(茶道または緑茶のこと)、お菓子(和菓子)お漬物(和風ピックルス)は京都独特の伝統と味を持っている。日本人の観光客ばかりでなく外国人の観光客の中には、京都の寺院や神社の美しさを褒め称えたり、仏像が美しい、と言う人も多い。これらの例は京都の芸術的、主観的なユニークさを表現するものであるが、京都はまた学術面でも客観的な評価を受けている都市でもある。なぜならば、京都大学からは自然科学分野において、数少ない7人の日本人ノーベル賞受賞者のうち、5人のノーベル賞受賞者を輩出している。湯川秀樹博士を初めとして、殆どの受賞者が原子物理学のような科学部門の出身である。京都大学の学術的特徴は、「ユニーク」と言われるばかりでなく、「クリエィティブ(創造的)」と言われるべきものである。なぜならば、ノーベル賞受賞者の業績はまさにそのようなものであったからである。
 京都は日本文化の原点である、と言われている。古い日本の都市の中でも、京都に似せて造られたものが多くあり、「小京都」と呼ばれる都市が、たくさん存在する。さらに政治的権威ばかりでなく文化的権威のほとんどが京都に存在している。仏教各派の殆どの総本山ばかりでなく、お茶(茶道)、お花(華道)、踊り(日本舞踊)の家元の殆どが京都にあった。京都では、多くの最高級の絵画が描かれ、素晴らしい仏像が多く作成された。また京懐石(英語原文3頁KaiseiをKaisekiと訂正する)は、典型的な高級日本料理だが、日本中に広まっている。歴史的に京都は多くの立派な僧を輩出した。そして現在ではノーベル賞受賞者を輩出している。京都は文化、芸術そして学術的業績を生み出した素晴らしい歴史を持っている。そのような歴史のお陰で、京都は他に類を見ない都市であるばかりでなく創造的な都市でもあるのだ。
 都はるみを理解するためには、京都の文化的で独創性な面に注目することが必要である。筆者も京都生まれなのだが、京都を離れて初めて京都の文化的な独創性に気がついた。都はるみは京都で生まれ、そこで色々な影響を受けた。京都で育った彼女は、京都の文化的風土を無意識の内に身に付けていた。彼女は京都に生まれたお陰で、誰も真似出来ない個性溢れる歌手に育った。彼女の特殊な歌唱方法である「うなり節」は、典型的な例である。(この点については、c章で考察することにする)常に他人の真似をしない生き方を求めている京都人は多い。彼らは自分の名誉に安住することはない。故に、都はるみもコンサートで手を抜いたことはない。筆者は彼女のコンサートをずっと見て来ているので、その事を証言出来る。彼女は歌う際、常に創造的なのである。
  
  b  父のこと

 はるみの父は、1904年1月23日に、ソウルから南東へ200キロメートル以上離れたキョンサン慶尚北道で生まれた。彼の名前はイジョンテク李鐘澤と言った。彼は、朝鮮総督府の土地調査事業のために小作農となったので、1940年10月14日に日本にやって来た。(英語原文3頁は、大下英治著「小説 都はるみ」に従って1940年10月14日としたが、有田芳生著「歌屋 都はるみ」では、1921年と記述されている)彼の生まれ故郷は絹製品で有名な所であった。そういう訳で、彼は織物工場が沢山ある京都の有名な町、西陣に移り住んだ。彼は韓国名の代わりに日本名を名乗らさせられた。そして松田正次と名乗った。その当時日本に住む韓国人の殆どは、日本人による差別のために強制的に改名させられた。そうこうしている内に、彼は成功し、事業を拡大した。三人の女性の織り子を雇った。その内の一人が北村松代であって、正次は松代と恋仲になった。彼らは後に結婚し、最初に生まれた子がはるみであった。はるみは1948年2月22日に生まれた。その時、彼女の父正次は42歳、母松代は27歳であった。はるみは混血児であった。
 松代の義理の父である北村助三郎は、彼らの結婚に強く反対した。彼は韓国人に対して根深い偏見を持っていた。その当時の社会的背景として、日本人は韓国人や中国人や他のアジア人を差別する傾向があった。しかしながら、はるみは幼い頃、差別を感じたことは全然なかった。なぜなら、似た境遇の子供がたくさんいたからである。彼女の近隣の人たちも取りたてて問題にすることもなく、温かい気持ちで彼女を見守ってくれた。そういった中で、彼女は幼い日々を楽しく過ごした。
 はからずも、都はるみが父の国籍のことでショックを受けたのは28歳の時であった。彼女は1976年11月16日に日本歌謡大賞をすでに獲得していた。さらに彼女はまたその年で最も優れた歌手に与えられる日本レコード大賞も獲得しようとしていた。その矢先、数誌の週刊誌が彼女の父が韓国人であることを大きく記事にした。彼らは、“日本”歌謡大賞も“日本”レコード大賞も韓国人を父に持つ歌手には与えられるべきではない、と主張した。はるみはこの差別発言に、とても傷つけられショックを受けた。その後、心無い人たちから、差別的な手紙が彼女の事務所に送りつけられもした。彼女はその時、歌手を止めたい、と心の底から思ったそうである。結局、そういった中傷に屈することなく、彼女はその年の暮れに帝国劇場で「第18回日本レコード大賞」を獲得した。歌手としてすぐれた感受性を備えた都はるみは、差別されたことのある者のみが知り得る苦悩を経験したのであった。

  c  母のこと

 はるみの母の名前は松代と言う。松代の母はタミと言い、中谷冨太郎と結婚した。松代は1919年10月22日に京都府で生まれたが、両親は彼女が4歳の時に離婚した。それからタミと松代は石川県の小松市に引っ越した。そこでタミは北村助三郎と出会い再婚したのであった。その後彼らは京都に戻ってきた。
 北村一家は西陣で織物工場を営んでいた。西陣は着物用の高級織物を生産することで有名である。松代は朝9時から夜9時まで一生懸命に働いた。彼女の休みは一月に一日と十五日だけであった。はるみは子供の頃から母にもっと楽をしてもらいたいと思い、熱心に手伝いをした。松代は一生懸命働いたが、けっしてケチではなかった。彼女ははるみの芸事には多額のお金を使った。はるみは6歳で日本舞踊を習い始め、9歳でバレーを習い、11歳で劇団に入り、そして音楽教室に通った。松代は、我が娘の成功を夢見て経済的な支援をした。
 以前「教育ママ」(子供の教育に過剰な関心を示す母親のこと)と言う言葉が日本でよく使われたが、はるみの母はそのような母親であった。彼女ははるみの芸能活動に大いに関心を寄せた。松代も歌唱力があったので、厳格に歌を教えた。彼女は最初、違った調子の声で歌うように教えた。50年代に伊丹秀子という女性浪曲師がいて、彼女は、子供や若い人々やお年寄りのさまざまな声を出すことが出来た。彼女は「七色の声」を持っている、と言われていた。これは独特な日本語の表現で、七つの音色のことを意味している。練習のお陰で、はるみは異なった音色で歌うことが出来るようになった。事実、彼女の歌をいくつか比較してみれば、すぐにその事がお分かり頂けるであろう。さらに、唸り声で重要なフレーズを歌うはるみの「うなり」は、独特であった。それはかつて演歌の世界を風靡した。彼女の「うなり」も松代によって教えられたものであった。はるみの典型的な「うなり」を、「アンコ椿は恋の花」の最後の部分で今でも聞くことが出来る。北村松代は、母として、はるみが有名な歌手になるよう、経済的に最善を尽くしたばかりでなく、ユニークさと創造性を兼ね備えた教師でもあった。

V 都はるみの音楽生活
 
 都はるみは、最も有名な日本の演歌歌手の一人として賞賛されている。彼女は1964年にデビューして以来、多くの演歌を歌ってきた。大ヒットした曲も多い。その結果、彼女は日本を代表する演歌歌手となった。しかし彼女は演歌歌手と呼ばれることを嫌った。なぜなら、彼女は演歌と他の歌との区別をしていなかったからである。はるみは音楽のジャンルという境界をすでに越えていた。

 a 引退以前
  
 「普通のおばさんになりたい」と言うユニークな発言を残して、都はるみは1984年突然引退した。彼女は20年以上一生懸命働いて来たが、歌を歌うことは好きではなかった、と言った。事実、「歌手は彼女にとって単なる職業にすぎない」と告白した。彼女は演歌に、ある種の劣等感を持つこともあった。魅力的な洋楽を歌う同年齢の他の若い歌手を羨ましく思うことさえあった。
 引退の決意をする以前は、はるみは本当の意味が分からない程、幸せの絶頂にあった。 彼女は家族や、先生や自分自身の音楽的才能に祝福されていることに気づいていなかったのかも知れない。特に彼女の母は娘に特別な音楽教育を施したが、はるみはそれが余り気に入らなかった。はるみは母のお陰で歌唱力を磨いたのだけれど、自分の母親に甘えすぎていた。さらに悪いことには、はるみへの母親の高い期待が呪文のように彼女を縛りつけた。彼女は結局母から自由になりたい、と考えた。
 市川昭介ははるみが最も尊敬する師で、はるみの楽曲の殆どを作曲した。その中には、「アンコ椿は恋の花」、「好きになった人」、「大阪しぐれ」がある。それらはヒット曲となった。しかし、他の歌、例えば、「馬鹿っちょ出船」、「アラ、見てたのね」、「はるみの三度笠」は、彼女が嫌いな曲であった。彼女は、「馬鹿っちょ」は馬鹿者を意味し、「アラ、見てたのね」は、言葉の響きが悪く、そして「はるみの三度笠」を歌う時は、変な笠を被ってやくざ者の姿をしなければならなかったので、これらの歌が嫌いであった。彼女は自分がこれらの歌を歌っている時、格好悪く醜い、と思ったことがあった。
 彼女は自分の意思を押さえて、20年以上も歌い続けた。彼女は、「職業として」歌い続けた。恐らく彼女は、スタッフばかりでなくフアンにも支えられていた、と言うことに気がついていなかったのであろう。引退前の都はるみは、自分自身の傑出した音楽的才能にも気づいていなかったようであった。

  b  引退

 上述したように、都はるみは1984に年芸能界を引退した。引退の理由は複雑であるが、ここでは3つの主な理由を挙げることが出来るであろう。
 第一の理由は、彼女は父の世話をしなければならなかった、ということである。はるみが生まれた時、父は44歳で、彼女が引退した時はすでに80歳になっていた。はるみは、彼女の師であり有名な作曲家である市川昭介に、父親の面倒を見たいので、歌手を止めようと思う、と言った。市川は、「お父さんのために、歌を止めてもいいよ」と言った。彼はまた都はるみのコンサートで、「はるみさんが引退してからたった3年でお父さんが急性の肝臓病で亡くなったので、はるみさんを止めさせてあげてよかった、と思っている」と語った。勿論、はるみは父の看病をすることが出来、幸せであった。はるみは京都を出てから父と一緒に暮らしたことがなかったので、引退後父親のために暮らすことが出来てよかった、と思った。
 第二の理由は、「結婚」問題であった。はるみは1978年に、元歌手の朝月広臣結婚したが、16年間付き合ったけれど1982年に離婚した。その5ヶ月後、デレクターの中村一好と暮らしていることが報じられた。中村はすでに結婚していたが、はるみに妻と離婚するつもりであると言っていた。あいにく、彼の協議離婚の話はうまく進展しなかった。はるみは、かつて中村との関係がとても不安だ、とこぼしたことがあったが、彼女には「赤ちゃんを産みたい」という別の望みがあった。彼女はすでに36歳だったので、これが最後のチャンスだと思った。彼女は真剣に中村の子供を産みたい、と思った。中村は配偶者と正式な離婚が出来なかったので、はるみは彼と同棲することとなった。「NHK紅白歌合戦」で彼女は、「夫婦坂」を歌った。「この坂を 超えたなら、しあわせが 待っている」という歌詞は、彼女が望んだまさにその幸せを代弁していた。
 最後の理由は、「普通のおばさんになりたい」と思っていたことである。彼女は16歳からずっと歌い続けている。歌うことは彼女の職業であった。彼女は両親を楽にさせてあげるために、仕事を続けて行こうと思っていた。彼女は好きでない歌も数多く歌った。大車輪のごとく一生懸命働いた。彼女は日常生活においては、子供同然であった。彼女は一人で電車に乗ることさえ出来なかった。彼女は自立した生活を全くしていなかった。そういったいくつもの想いの中で、彼女は歌手を止めて自分自身を取り戻したいと思った。彼女の引退は彼女自身の蘇りを意味した。

 c  復帰後

 都はるみは今までに115枚以上のレコードを出している。当時は、フォークソング以外の殆どが流行歌としてまとめられていたので、最初は彼女も流行歌手と呼ばれていた。しかし、すぐに「演歌」(伝統的なスタイルの日本の歌とでも言おうか)が生まれた。その結果、彼女は演歌歌手と呼ばれ始めた。彼女の楽曲の半分以上は、演歌の偉大な作曲家市川昭介によって作曲されていた。彼はたくさんのヒット曲をはるみのために書いた。例えば、「アンコ椿は恋の花」、「涙の連絡船」や「大阪しぐれ」は代表的なものである。にも拘わらず、はるみは演歌歌手と呼ばれることを嫌った。彼女の歌を小さな一つのジャンルに閉じ込めることは出来なかった。すなわち、はるみの音楽の才能は、いわゆる演歌のような音楽的分野の境界を打ち破っていた。その証拠に、今でもはるみは、自分自身を演歌歌手ではなくて、流行歌手と位置付けている。
 はるみは1990年5月に復帰した。今度はホップスへの傾向を感じさせた。カムバック後の彼女の新しい音楽は、「小樽運河」であり、「千年の古都」であった。彼女が引退する以前の歌は、「夫婦坂」以外、彼女の生き方と関係のないものが殆どであった。彼女は食べるために歌っていた。しかし以前の歌とは違って、はるみは、「小樽運河」や「千年の古都」の制作に参画した。その結果、彼女の「生き方」がこれらの歌に反映した。彼女の歌と彼女の生き方が結びついたのは、この瞬間であった。
 さらに、はるみの三曲「小樽運河」、「千年の古都」そして「BIRTHDAY」は、はるみの音楽傾向を解く鍵を私達に与えてくれる。最初の楽曲「小樽運河」は、ポップス調にアレンジされた。その中には彼女の生き方と関係のあるキーフレーズが、散りばめられている。例えば、「四十路半ばの 秋が逝き」という詩は、彼女の実年齢を反映している。さらに、「イエスタデイ(ビートルズ)を聴きながら」は、1960年代の音楽傾向を思い起こさせる。「千年の古都」には「小樽運河」よりももっと多くのフレーズが入れられた。「衣笠山」(はるみの実家の近くの山)、「機織る音」(実家の家業)、「母」(はるみの最愛の人)、「星の歌」(幼い頃母から教わった歌)、「地蔵」(子供の姿をした守り仏)等である。また「千年の古都」は、彼女の生まれ故郷が京都であることを教えてくれる。この歌とはるみの実生活のイメージが、これらのキーフレーズを通してお互いにオーバーラップするのである。最後に「BIRTHDAY」は阿木燿子が作詞し、宇崎竜童が作曲した。二人は結婚しており、ポップス界で最も有名なミュージシャンである。はるみと燿子は友人だったので、燿子ははるみの生き方を考えて、はるみのために作詞をした。例えば、「毎日が誕生日」とか「悔いのない人生を送りたいと」とか「今 歌いたいのは 恋の歌より、、、弾む生命の歌」という歌詞がはるみの生活と大いに結びついていた。はるみは演歌とは違ったルートを切り拓くことによって、彼女自身の生き方を表現する一つの活動として、新しい音楽の道を開くことが出来たのである。

W 都はるみの音楽哲学

 都はるみは、音楽活動では完全主義者を目差している。かつて彼女は、ジャーナリストの有田芳生に「私はコンサートで一つの間違いもしたくないと思っている。特に、復帰後はね、、、」と語った。その証拠に、彼女のコンサートは常に緊張した雰囲気の中で行なわれている。そしてその雰囲気によって彼女のコンサートの内容は、充実したものになっている。はるみの主な音楽活動は、CDを発売したり、テレビの音楽番組に出演したり、国内でコンサートを行なったり、銀座の日生劇場で1ヶ月のロングコンサートをしたり、毎年日本武道館でコンサートを開催することである。彼女は好きな音楽活動に力点を置いている。この好みこそが彼女自身のポリシーであり、彼女の音楽哲学と言ってもよい。彼女の音楽哲学は、書物で表現されているのではなく、歌を通して表現されているのである。

   a 仏教

  京都にはたくさんの寺院や神社がある。はるみの実家の近くにはお寺やお地蔵さんがあり、そのお寺は、「閻魔堂」と呼ばれている。はるみは自分のバンドを、このお寺の名称に因んで、「閻魔堂」と名付けた。また、「千年の古都」の歌詞には、「根付の鈴を 嬉しさに 地蔵の辻で 鳴らしてみました」とある。「千年の古都」の歌詞の「地蔵」と、はるみの実家の近くの「地蔵」がお互いにオバーラップする。「小樽運河」では、「精進おとしの 酒をのみ 別の生き方 あったねと、、、」とある。「精進おとし」は仏教用語である。さらに「桜時雨」では、「負けないで 生きていこうねと おみくじ結んだ 銀閣寺」と歌っている。「おみくじ」で運を占うことは日本の仏教信者の中でよく行なわれている。最後に、「古都逍遥」では、「夢まぼろしか 祗園会は 濁世の闇に 赫々と 御霊をおくる大文字」と、特に深遠な仏教表現をしている。これらの歌詞は非常に難解で理解出来ない日本人も多いかもしれない。はるみの歌には、高度な仏教用語が散りばめられている。はるみの音楽哲学の一部分は、このような仏教的表現から成り立っている。彼女の歌は、人間の光と闇の両面を見続けているのである。

 b  歴史哲学

 都はるみの歴史哲学は「千年の古都」の中で、「時は身じろぎもせず 悠久のまま」と表現している。無限の時間に対する基本的な認識は、彼女の歴史観のようである。「永遠の時間」という感覚は、彼女の全ての歌に特有のものだが、そのような感覚で彼女は歌を歌っているように思われる。
 彼女の歴史認識に関する別の例は、「天女伝説」の中で表されている。天女伝説は、「幾千年の 夜を越え 遠くの国から 降ってくる」と語っている。またこの曲は、「けざやかに 光と影を織りなして 紡ぎきれない 時の河」と、時を光と闇の“河”に例えている。この曲もまた時間の永遠性を表現したものであった。
 都はるみの楽曲の歴史哲学は、長い歴史を持った京都に由来しているようである。歴史に関する彼女の最後の楽曲は、「花の乱」である。(有名な日本の作曲家、三枝成彰が作曲したNHKテレビ大河ドラマの「花の乱」のテーマ音楽に、阿木燿子が作詞をした)この番組は1994年に9ヶ月間毎日曜日の夜放映された。この曲のヒロインは日野冨子(1440−96)で、彼女は室町幕府(1338−1573)の第8代将軍足利義政の妻であった。この大河ドラマは彼らの暮らし振りを通して、その時代の歴史的特徴を描いている。都はるみが歌う「花の乱」は、重厚なメロディー と相俟って、歴史上の人物である日野冨子の、一人の女性としての愛と苦しみを表現している。この歴史上の人物を真摯に取り上げた番組は「花の乱」以外、恐らく無かったであろう。歴史的名な出来事を歌うことで、都はるみは歴史哲学の一面を示したのであった。今や彼女の歌には、時間と歴史への信念、つまり、彼女の歴史哲学が貫かれている。

 c 研ぎ澄まされた官能的表現

 はるみのデビュー曲を知っている人は殆どいないようである。それは、一般的に信じられているように「アンコ椿は恋の花」ではなくて、「困るのことヨ」であった。その曲を歌ったのは、彼女が若干16歳の時であった。その歌の詩は、ボーイフレンドに口説かれた若い女性が、彼氏を拒み切れない様子を描いている。それは色っぽい演歌である。次に星野哲郎と市川昭介によって作られた「アンコ椿は恋の花」は、はるみの最初のヒット曲となった。星野は有名な作詞家で、市川もすでに有名な作曲家であった。星野は30代の後半、市川は前半であった。かれらは、着物の袖から出たはるみの腕は、エキサイティングだ、と率直に語った。さらに、「都はるみ大全集」(145−149頁)で、市川がはるみは「色っぽい火の玉」だ、とも言っていた。しかし、筆者は、はるみは彼が言ったようにセクシーであったかも知れないが、背伸びをしてそれらの歌を歌っていたのではないか、と思う。不幸なことに、彼女は年齢相応の歌を余り歌うことが出来なかった。結局、彼女は36歳で芸能界を引退することとなった。はるみは他の人たちが作った歌を歌っていた。以前彼女は嫌いな歌がある、と言ったことがあった。はるみの実生活と彼女の歌を照らし合わせることは不可能であった。彼女はいつも背伸びをしながら歌っていた。
 しかし、その後引退以前の状況が一変した。1984年のファイナルコンサートで歌った「夫婦坂」は「この坂を 越えたなら しあわせが 待っている」と彼女の幸せな未来を示唆していた。この歌ははるみと彼女のプロデューサーである、中村一好との関係を暗示していた。はるみは、普通のおばさんになりたい、と言って引退した。復帰コンサートでは、はるみが企画原案した「小樽運河」と「千年の古都」を歌った。その後は、「BIRTHDAY」、「愛は花、君はその種子」、「飛べない鳥へのレクイエム」、また「あなたの隣を歩きたい」(中上健次のための追悼歌)「アジア伝説」を次々と発表した。これらの歌の全ては、はるみの実生活を表現していた。さらに、はるみ50歳代で、大変化が進行した。彼女の歌の中で官能的な側面が開花し始めた。「邪宗門」はまさにそのような曲である。1998年4月13日の日本経済新聞欄に依れば、道浦母都子の短歌が曲の冒頭に挿入されていて、挑戦的であると同時に官能的でもある、と書かれている。「残照の 光の海を 二人行く 花のごとかる 罪を抱きて」が、その短歌である。この詩は挑発的な言葉使いで、不倫に落ちたカップルの苦悩を描いている。例えば、「熱持つ乳房」、「あなたに倒れて ゆくまでの愛」そして「漲れる 男の体 寒の夜を 抱きしめれば 樹液の匂い」は、この歌を文学的にではあるが、官能的に演じている。別の例は、「大原絶唱」である。この歌のテーマも、不倫であることが容易に分かるであろう。なぜなら、「うつせみの恋」というフレーズが三度も繰り返されているからである。そこには官能的なものを表す多くの表現がある。「匂いこぼれる 白い肌」とか「からだ反るほど 息も翔ぶ」とか「抱いてください もういちど」がそうである。心に刻み込むようなはるみの歌は、傑出したメロディーと相俟って、愛と生と死と希望が複雑に混じり合ったものを感じさせる。故に、彼女の音楽の官能的表現を、「セクシー」という単なる陳腐な言葉で規定することは不可能でる。都はるみは道浦母都子との対談で、「50歳になったら女の熱いトロトロしたものを歌いたい」と語った。コンサートにおける彼女の官能的表現は、決して観客に不快感を与えるものではない。彼女の歌のこのような側面を、媚びることない研ぎ澄まされた官能表現と、記述することが出来るであろう。そして、この官能的表現が確実に、彼女のコンサートをさらに魅力的なものにしているのである。

X 都はるみの未来: 世界的歌手を目指して

 私が英語で都はるみに関する伝記的論文を執筆し始めた当初の目的は、彼女が日本のいわゆる演歌歌手から世界的な歌手になる手伝いをすることであった。あいにく現在、日本にはグローバルなポップシンガーは殆どいない。しかし日本の他の伝統的文化も世界に広まっている。現在の典型的な例は、アニメのキャラクターであり、ゲームソフトであり、日本人メジャーリーガーであり、カラオケ等である。「ドラエモン」はアジア諸国で人気があり、「ピカチュウ」も世界でよく知られている。イチローや新庄のような日本人メジャーリーガー達もアメリカで活躍している。中田や小野のようなプロサッカー選手もそうである。音楽はと言えば、ハードウェアーとしてのカラオケしか、世界的に認められていない。現在日本人で世界的に有名な歌手は殆どいないと言ったが、過去を思い起こすと、日本にも世界的な歌手がいたのである。彼の名前は坂本九である。(1941年生まれで、1985年飛行機事故で亡くなった)彼は「上を向いて歩こう」を歌った。この曲のタイトルは「スキヤキ」に変わり、キャピタルレコードから発売された。この「スキヤキ」が思いがけず合衆国でブレークしたのは、30年以上前のことであった。レコードの販売枚数は1千万枚以上に達し、いまだに売れ続けていると言われている。残念ながら、坂本九のような歌手は今いない。私は30年以上のこの「ブランク」を埋めるために、都はるみを世界に紹介したいと思っている。彼女のことを余り知らない日本人以外の人々に、都はるみに関する情報を提供することが、英語でこの論文を書いた別の目的である。皆様には、彼女のCDを聴き、ビデオを観、コンサートに行かれることをお勧めする。特にコンサートは彼女の音楽を理解する上で最適である。なぜなら、彼女の変化に富んだ声を聴き、彼女の美しい着物を見、彼女の音楽的雰囲気を感じて楽しむことが出来るからである。カーネギーホールやマディソン・スクェアー・ガーデンのような場所で、ニューヨーカーのために、はるみがコンサートを行なうことを切望している。彼女の歌のテーマ、宗教や歴史や哲学や、ロマンスや苦悩は、全て世界共通のものである。東洋の永遠なる歌姫都はるみが、彼女の素晴らしい歌を通して、人種や国籍や宗教を問わずわれわれ皆に共通する感動を、世界中の人々に伝えることは可能であろう。


脚注

都はるみ楽曲一覧(日本コロンビア株式会社発売)

1. アンコ椿は恋の花(星野哲郎作詞・市川昭介作曲)1964年、3分58秒
2. 好きになった人(白鳥朝詠作詞・市川昭介作曲)1968年、3分36秒
3. 大阪しぐれ(吉岡 治作詞・市川昭介作曲)1980年、3分57秒
4. 馬鹿っちょ出船(石本美由起作詞・市川昭介作曲)1965年、3分47秒
5. アラ見てたのね(関沢新一作詞・市川昭介作曲)1966年、3分13秒
6. はるみの三度笠(市川昭介作詞・作曲)1969年、3分30秒
7. 夫婦坂(星野哲郎作詞・市川昭介作曲)1984年、4分31秒
8. 涙の連絡船(関沢新一作詞・市川昭介作曲)1965年、4分46秒
9. 小樽運河(企画原案 都はるみ・吉岡 治作詞・弦 哲也作曲)1990年、4分21秒
10. 千年の古都(企画原案 都はるみ・吉岡 治作詞・弦 哲也作曲)1990年、5分25秒
11. BIRTHDAY(阿木燿子作詞・宇崎竜童作曲)1991年5分11秒
12. 桜時雨(星野哲郎作詞・市川昭介作曲)1993年、4分45秒
13. 古都逍遥(たかたかし作詞・弦 哲也作曲)1994年、5分42秒
14. 天女伝説(坂口照幸作詞・弦 哲也作曲)1992年、5分57秒
15. 花の乱(阿木燿子作詞・三枝成彰作曲)1994年、6分46秒
16. 困るのことヨ(西沢 爽作詞・遠藤 実作曲)1964年、3分42秒
17. 愛は花、君はその種子(The Roseより。Amanda McBroom 原曲作詞・作曲、高畑 勲日本語訳詩)1991年、4分2秒
18. 飛べない鳥へのレクイエム(坂口 照幸作詞・佐瀬寿一作曲)1991年、7分30秒
19. あなたの隣を歩きたい(坂口 照幸作詞・三木たかし作曲)1993年、7分24秒
20. アジア伝説(山上路夫作詞・桜庭伸幸作曲)1996年、4分33秒
21. 邪宗門(道浦母都子作曲・弦 哲也作曲)1998年、6分53秒
22. 大原絶唱(坂口照幸作詞・弦 哲也作曲)2000年、5分22秒

参考文献

『都はるみ大全集』(日本コロンビア株式会社、1994年)
大下英治『小説 都はるみ 炎のごとく』(徳間書店、1991年)
有田芳生『歌屋 都はるみ』(講談社、1994年)
中上健次『天の歌 小説 都はるみ』中上健次全集8(集英社、1996年)

(備考:本論文に記載されている固有名詞には全て敬称を略させて頂いた) 
                                                                 

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